ずっと快調で、快調すぎて眠れなくて、それでも空元気でここ数日来たのだけど、無理やり眠ったら、悲しい夢でもないのに、なぜかずっと泣いてました。
起きてから気付いて、なんかすごく悲しいわけでもないのに涙がどんどんでてきてて、うーん、これも躁鬱の波なのかなあ……なんて思いながらまた眠ってまた泣いて、それで起きて。
なんか妙に不安定。精神的には安定してるのに、不安定。
どうしてだろ……不思議……。

今日、っていうか、さっき、東京の6ちゃん……日本テレビ? TBS? のどっちかのニュースバードっていうのを見て、それに天才音楽少年の特集やってて、とても面白かった。ルワンダでの虐殺についても、考えさせられたのだけど、だけど、あえて、一作家の端くれとして、天才クリエイターというものを考えたい。っていうか、なにか言いたい。ていうか、ウイルスチェック終わるまでパソコン他のことできないし、やることないから文章書いて時間をつぶそうって算段です。
その音楽天才少年は、二歳で、教えられてもいないのに、チェロなどの楽器の絵を描き、文字でチェロ、と書いたそうです。三歳くらいから、熱心に書いていた楽器の絵が音符になり、曲を作り出したそうです。
結論から言うと、交響曲を人生で五つ書けばいいほうだ、というらしいのですが、その少年は、13歳ほどで五つ完成させたそうです。
ここで思い出されるのが、小説家の日日日(あきら)様。
詳しくは知らないのですが、間接的に知り合い? なのか? ……とかそれはまあいいとして、本で読んだんですけど、ていうか有名すぎてみんな知ってるかもですけど、ほぼ同時受賞五冠王なんです。17歳くらいで。確か。
で、一つとるだけでもぶったまげなんですが、そりゃ受賞といっても大賞なのか優秀賞なのか佳作なのかとか色々ありますが、とにかく、賞によっては四千とか集まるなかの三本に入らなきゃあかん、っていうくらいのハードルを、同時期に出した作品五つでやったんです。その時私は……えーと、何歳だろう、今の仕事をちまちまやってる頃で、二十何歳か。
で、天才が現れた、って本当に、「天才」って言われてて、作家なんてーものはー……なんて語れる身分じゃないけど、だけど、自分がやっぱり大好きで、自分でこうだ! っていうのがあったりするのが割と多いと思うのだけど、そういう自我の強い人たちからしてみたら面白くないっていうか、興味はあるけど、その実どうなのよ? っていう感じだったんじゃないかなあ、と思うのですが、わたしもそうだったんですが、とある審査員の方に、スピード違反って言われるくらいに(これも有名なコメントですね)、新人ならざるものを持っていて、老獪な文章を操り、物語を操り、なおかつ、将来のためにも擁護施設だか、福祉だかの学校にも通っているというくらいで、もう、なんていうか勝ち組? って人の上に、そういう人だからか、ものごっつ人当たりもよくって、知り合いで嫉妬してねたんでる人さえも、いいやつだった……とうな垂れるくらいで、とにかく、電撃文庫様などでは、天才とか奇才ってかなり輩出されてると思うのですが(あきら様は電撃では二次どまりだったそうですので、電撃の壁の厚さがこれで想像できると思います)、とにかく、五冠という事実だけでも、それはもうすごいことで、わたしは、ラブレター大賞だっけかな……かなにかのハードカバーの本を読んだんですが、男が書いた女性一人称小説で、初めて泣きました。逆に女性が書いた男性一人称では泣いたことはないです。
それで、話が戻りますが、その音楽天才少年。ジェイ君と言われていましたが、話を要約すると、「音楽を理解する前に音楽そのものが頭の中にある」というような感じで、とにかく、楽譜うんぬん、音域うんぬん、いうまえに、もうオーケストラ全ての楽器の音楽というものが頭の中でできちゃって、流れ続けているそうです。彼はこれは「マルチ・チャンネル」といって、いくつかの思考回路を三つ持ってるそうなのですが、マルチ回路はともかくとして、もう頭の中で完成されているから、書き出すだけ、っていう状態というのは、小説家の中でも良く言われる「神が降りてくる」とか言う状態なのかなあ、と思いました。あるとき、頭の中にびびび、とかぽかん、と、物語の固まりが落っこちてきたり浮かび上がったりして、作家はそれをどうなってるのかな? と思いながら紐解く……すると、物語が書きあがっちゃってる。
この話にわたしが過敏に反応したのは、わたしも、神が降りてくる、っていう体験をしたことがあるからです。っていうか、ほとんどの作業をそうやってこなしているのが実情です。例えば、話を作る時に用いる、劇的要素、ガジェット、起承転結、伏線、その他もろもろを、こうやってこうやるから面白くなるんだ、とか、結論がこれだから、問題提起はこれで、そこからスタートして波を作ることを考えるとこうなるんだ、って、考えたりしない。
最初の一行、あるいはタイトルが頭にぽかんと浮かぶと、そこから一気に書き上げる。本一冊を二日くらい、12時間くらいで書き上げる。その間、このキャラがどうなるのか? なんて、書いてみないとわからない。自分でもわからない。
で、学生時代は企画部門で受賞ラッシュでした。ほんとう、物語のルーツとか、その話のひな型とかなんて知らなくて、自分で思い浮かんで、それで書いただけ。だから、なんだこりゃ? っていうのも沢山書いた。人の三倍以上の数を書いて、そのうちの一つ、二つが、ものすごくヒットする。
でも、どうして面白いのかなんてわからない。この中の作品ごとに違いってあるの? 何がいいの? 何が違うの? って自分で聞いてた。だから、わたしにとっての小説の勉強というのは、自分が書いたものがなんなのかを知るための、人に向けてその反応を知って、自分でコントロールするための実験の繰り返しだった。
よく評されることとして、「とても奇妙なバランスで成り立っている」「だから手の出しようがない」ということでした。欠陥品には違いないのだけど、その欠陥を含めた上で何かバランスになっていて、とりあえず物語りになってる。でも、わたしにはどこが欠陥なのかがわからなかった。
……ていうのも、沢山の物語を書いてきて、それで物語の基礎を学び、形をぼんやりではなく、きっちりと見えるようになってきてからは、自分の間違いというのがわかってくるようになりました。同時に、そういう間違い(小説上で間違いというのは存在しないと思いますが、まあ、面白くないっていうことで)がわかってるのに、それをやってしまう自分というのがコントロールするために、試行錯誤と、時間を膨大に費やすってことになるのだけど、ここでいいたいことは、結局、わたしも天才なのだ、あはははは、ではなくて、天才の素養、要素、っていうのは誰しもがもっていて、それが偶然のごとく、その時代、その空間にマッチしただけなんだ、ってことで、例えば、素晴らしい画家の素養を持っていても、何かのきっかけでエンジニアになってしまったりして、天才になれるはずが、プロで終わった、っていうこともあると思うのです。
なにもプロをバカにしているわけではなく、小説一つとってみても、その小説が時代にマッチするかどうかも「時の運」というくらいで、人の評価がすべてではないから、一重に天才とは何かなんていえないのだけれども、それが天才かどうかなんかいえないのだけども、だけど、例えば、鎌倉時代の美人基準と現在の美人基準が大幅に違っていたかのように、その時代にマッチした、幸運な人、っていうのが天才だと思うのでした。
こうすると、天才なんて大したことねー、なんて偉そうに、ってなっちゃうのでまた困る。時の運パワーマキシマムの人が天才と言おう。普通に時の運がちょっと良かったとか、普通と天才の合間に納まっちゃう人がべらぼーにいて、その上、自分がマッチする時代なんて永久にこないかもしれない可能性だってあって、その上でマッチするんだ。だからすごいことなんだ、天才。
それにしても終わらないな、……チェックソフト……。
うーん、で、まあ、思ったことは、天才って、頭の良さ悪さとかそういう概念からぶっ飛んだところにあるってこと。
ジェイという天才音楽少年は、一度書いた楽譜を二度と書き直さないらしい。しかし、ベートーヴェンは、何度も何度も書き直して、ぐちゃぐちゃになるまで書き直して、それであんな天才って言われるくらいの曲を作ってなった。
ジェイの教師も、チャレンジして追及する姿勢を持たなければ、本当の天才にはなれないだろう、と言っていた。しかし、もしその姿勢がもてれば、二百年に一人の天才になれるだろう、時代に名を残すレベルの天才になれるって断言してた。主観ではなく、客観的意見として、そうなのだ、と断言してた。
わたしはこの話を、すでに何人かにして、何人かもこのテレビを見ていたようだけど、ある人は挫折して死にたいというし、ある人は自分は凡才だから努力しようと思うし、ある人は自分も天才肌だといった。
わたしも天才肌ではあると思う。
しかし、それは性質が、だ。
天才ではなく、天才のようなやり方を好んで行うというだけで、それで成功できないタイプの人間だと思ってる。
だから、こうやってあがいて、思いついたものをぐちゃぐちゃいじったり、放棄して新しく何度も何度も考え直したり、天才の作品を読んだり、努力の天才の人の本を読んだり、いろいろしてる。でも、今だに大成功なんてしたことない。
テレビで言ってた。
チャレンジする姿勢を持ちつづけることが天才だって。
ジェイという少年は、すべてのことを、地学やコンピュータなどにも興味をもち、まるで遊ぶかのように好奇心に目を輝かせていた。
でも、ふいに、インタビュアーの質問に疑問を口にした。
「幸せってなんだろう」
わたしは、わたしも、幸せについて、考えたことはある。一般論も用意できるし、持論も用意できる。主観的なことも客観的なことも色々な視点から幸せというものを捉えて考えることができる。
でも。
天才から見た幸せ論って何だろうって思った。
多分、わたしからは決して見えないものなんだろうな、と思った。
思考の放棄は作家にとっては一番やってはいけないことだ。
しかし、
考えないからこそ、その素朴な疑問をもった天才の天才たる所以に憧れ、天才というものを敬い、自分を律することができると感じた。
わたしは天才だと思ってる。
同時に半分で、凡人以下だと思ってる。
その二つをやりくりして、人生をやってきてる。
何度もいうけど、成功なんてろくにしてない。ましてや普通のサラリーマン以下の生活をしている。ニートと変わらない。ニートはニートの論があるから、引き合いに軽軽しく出すべきことでもないので、申し訳ないのだけど、ここでいいたいことは、わたしは別に、結局、なんでもないってことで、だからこそ、天才という、やるだけでやることすべてが成功し、そのマテリアル自身がそもそも頭の中で完成されているって状況に憧れる。
最期に。
負け惜しみではないけれど、そういう人生も楽しいだろうけど、わたしは今の自分の失敗だらけの人生が嫌いじゃない。不幸にしてしまったり、迷惑かけてばかりいるから、申し訳ないのだけど、死ぬ時には笑って死ねる自信がある。もちろん、自然死ならだけど……。あるいは、誰かと本当に殺しあって、それで「ああ、この人には敵わないなあ」って思ったらそれはそれでいいかもしれない。そんな格闘家魂。作家の端くれなのに……うーん、微妙な存在だ。
そんなわけで、スキャンが終わりました。
これで終わりにします。
ジェイは、交響曲のレコーディングが終わったとたんに新しい交響曲を書き出したそうです。
わたしも物語を書いているときに、新しい物語が生まれてきます。
結局、ミックスして、それで失敗しちゃうんだけど、きちんと分けてかけばいいんだけど、いろいろなものを作品にこめたいって気持ちが強くって。
へへ、最期にちょっとだけ自慢でした。失敗してもいいもんね。
